深田 上 免田 岡原 須恵
幻の邪馬台国・熊襲国 (第14話):アナザーストーリー(3)

14.卑弥呼が天照大神だとしたら 

 JR九州の長崎本線の神埼駅、ここは吉野ケ里遺跡公園の乗降駅である。佐賀駅や鳥栖駅からは10数分で着ける。この駅の北口広場に、図38左に示すような卑弥呼の像がある。
中国、魏の王から親魏倭王の称号を与えられた卑弥呼にふさわしい銅像である。設置者の意図は、吉野ケ里遺跡が邪馬台国や女王卑弥呼に関係する地であることをアピールすることだと思われる。まったくそうである。吉野ケ里遺跡は紀元前5世紀頃から3世紀まで、約700年続いた遺跡であるが、3世紀以降、突然消えてしまい、環濠も土砂がたまり機能しなくなってしまった。人が安全に居住する集落ではなくなってしまったばかりではなく、畿内中心の墓式文化、前方後円墳まで築造されるようになり、居住地だった吉野ケ里は墓地化してしまった。このことは、この地方を含めた九州北部が畿内勢力下となったことを意味する。この時期は、卑弥呼が死に、狗奴国に敗れて邪馬台国が終焉を迎えた時期、413年頃と推定されている。神武東征の項で述べたように、神武天皇勢力が九州や瀬戸内地方を制圧し、大和政権が統治能力を発揮しだした時期である。

卑弥呼像 アマテラス
図38.  神埼駅の卑弥呼像 歌川国貞のアマテラス

 図38右は、江戸時代の絵師、歌川国貞のアマテラスで、1857年に描かれた「岩戸神楽起顕」という錦絵の一部を切り取ったものである。邪馬台国の卑弥呼はアマテラスであると考える研究者や学者が64名中14名あることを第9話の図33で示した。アマテラスは天照大神、伊勢神宮の主祭神として祀られ、年間参拝者は800万人以上、式年遷宮の年は約1400万人が訪れるわが国最高格式の神宮である。式年遷宮から計算すると、約1300年前の伝統と格式を有する伊勢神宮の主祭神が卑弥呼であったら、というのが本項の趣意である。

 アマテラスが八百万(やおろず)の神の頂点にあり、最高神であり、皇祖神として、主祭神として伊勢神宮に鎮座するまでのいきさつが、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)の儀式や行事などを記録した804年発行の『皇大神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』や鎌倉時代に書かれた『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』などに詳しく書かれている。この記録を推考すると、大和政権の変遷が分かるし、何よりも、天照大神は、記紀の神話同様、ひょっとしたら大和王朝が作った神様ではないか、本当は卑弥呼ではなかったのかと思えてくる。どういうことなのか、まず、天照大神の霊代(たましろ)である鏡が大和王朝に忌み嫌われ、神殿から他所へ移すよう迫られ、鎮座場所を90年にわたって探索行脚する記録から紹介しよう。

元伊勢伝承地
図39.  「元伊勢」の伝承地と、その巡行ルート

 図39は、「元伊勢(もといせ)」伝承地とその巡行ルートを地図に書き込んだものである。「元伊勢」とは、伊勢市に鎮座する伊勢神宮の内宮(皇大神宮)が、現在地へ遷(うつ)る以前に一時的に祀られたという伝承のある神社や場所のことである。伊勢神宮は天照大神を祀る内宮(皇大神宮)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る外宮(豊受大神宮)があるが、本項では天照大神を祭神とする皇大神宮(内宮)が、現在の伊勢市に鎮座するまでの話に限定する。

 新たな鎮座地を探すことを最初に命じたのは第10代の崇神(すじん)天皇である。自分の娘である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に、その役目を命じた。豊鍬入姫命の探索巡行先は、西は現在の広島県福山市、北は、京都府の宮津市、南は、和歌山県の有田郡有田川町で、出発地の大和を含めて26ヶ所である。図39点がその箇所である。ルート(青色線)は一部往復、一部巡回で描いたが、大和―和歌山間や大和―福山間、大和―宮津間は往復だったかも知れない。巡行に費やした年月は50年と、途方もない長い期間にわたっている。

 それでも鎮座に適する地は見つからなかったので、第11代の天皇、垂仁(すいにん)天皇は皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)に、後を継いで探索巡行するよう命じた。図の赤い線の区域がそうである。倭姫命もまた、三種の神器、特にアマテラスが死後も自分の霊代(たましろ)として祀るようにと言い残した鏡を持って現在の桜井を出発した。道順は、桜井から宇陀、名張、伊賀、甲賀、湖南、米原、岐阜、一宮、桑名、亀山、津、松坂、多気まで転々と行脚し、伊勢市でも6ヶ所目でようやく現在地に落ち着くことができた。この倭姫命の巡行箇所の総計は66ヶ所、費やした年数は40年近くに及んでいる。

 ここまで、二人の姫命(ひめのみこと)の巡行に費やした年月の合計は約90年、巡行箇所の合計は92ヶ所以上にのぼる。このことは何を意味し、何を暗示しているのかである。一つは、アマテラスの霊代(たましろ)が忌(い)み嫌(きら)われ、受け入れてくれる地域がなかったということは、その出自(しゅつじ生まれのこと)が大和王権系ではなかったことを意味する。逆に、出自は皇祖系であっても、権力者が逆賊系だということもある。

 二つ目は、第10代の崇神天皇が天照大神(鏡)を宮殿の祭壇から撤去する理由にあげたのが「恐れ多いから」である。しかし、本音は、アマテラスが対抗勢力だった部族の象徴神(鏡)だからだったからで、次の第11代の垂仁天皇も移転を指示しているから、この時代の大和朝廷は、初代の神武天皇時代の勢力ではなく、アマテラス系の反抗勢力が存在していたことを示している。一説によると、第10代の崇神天皇は、3世紀後半に実在した初代の天皇であるとされる。初代が神武天皇でなく崇神天皇であれば、忌み嫌った霊代(たましろ)は一体、誰だったのかである。また、神武東征の話はどうなるのか、記紀における「神武東征」は、なぜ「崇神東征」としなかったのだろうか。そうなっていないのは、崇神天皇が記紀編纂時代の大和王権にはふさわしくない天皇だったからに他ならない。

 さて、卑弥呼の話である。「卑弥呼」は魏志倭人伝に記載されている文字である。魏志倭人伝の著者である中国の陳寿という人は、倭国(日本)や倭人(日本人)のことを使者などからの伝聞を漢字という文字を使って文章化したのである。「ヒミコ」と音で聞いたことを文字(漢字)で表記するために「卑弥呼」の漢字をあてただけである。卑弥呼は太陽神に仕え、鏡を用いた占術で国をまとめていた。したがって、「ヒミコ」は「卑弥呼」ではなく、「日巫女(ひみこ)」「日御子(ひみこ・ひのみこ)」が適切な名だと筆者は考える。

 アマテラスも全く同じ太陽神の巫女であった。時代的にも同じ時期であることを考えると、アマテラスは卑弥呼であり、卑弥呼はアマテラスに比定されることも理解できる。しかし卑弥呼は西暦248年頃に死んで、その後の邪馬台国も滅びている。卑弥呼が死んだこととその後のことが魏志倭人伝に書かれている。その内容は、どうやら卑弥呼の後継者、壹與(とよ・いよ)がアマテラスの比定者になりそうなのでややこしくなる。

 魏志倭人伝の最後の方に、「卑弥呼以死・・更立男王 國中不服 更相誅殺・・復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定・・」とある。
意訳は、卑弥呼が死んだので男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった、そこで、十三歳の壹與(とよ・いよ)を卑弥呼の後継者として王にしたところ、国が安定した、である。「壹與(いよ)」は「臺與(とよ)」であるとの説が有力であるが、いずれにしても卑弥呼の死後も中国、魏の国の助勢を受けながらも暫く、邪馬台国は継続している。「壹與」または「臺與」のその後は明記されていないが九州を中心とした倭国(九州北部)の女王になったことは間違いない。この倭国が東征して初期の大和王朝となった可能性もある。壹與(臺與)がアマテラスの息子、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の妃になったとする説もある。これらを加味すると、卑弥呼系の巫女がアマテラスに比定されてもいいわけである。

 そこで、想定を変えてみよう。先ほど、アマテラスが忌み嫌われ、崇神天皇や垂仁天皇に追い出されることになったのは、大和朝廷系の出自ではないからだと書いた。崇神天皇は三世紀後半に実在した初代天皇であれば初代神武天皇の時代と一致する。この時代の祭神(霊代:鏡)がアマテラスではなく卑弥呼だったいう想定である。90年後、卑弥呼を祭神として受け入れてくれた勢力集団が伊勢の国であり、飛鳥時代(680年頃)の伊勢神宮創建に引き継がれたとすれば、卑弥呼がアマテラスに比定される所以である。

<つづく>   
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